まちどおしい北陸新幹線福井・敦賀間開業までのカウントダウン

関東探訪・part2

再び北関東の地を踏む

 楽しみにしていた北陸新幹線の福井県敦賀延伸が当初の2023年春から、一年遅れの24年春に開通の予定となり、この歳にしてガッカリ感がぬぐえない。もう一つの心残りが敦賀港にゆかりの外交官・杉原千畝(1900~86年)の博愛・人道の偉業が、未だにユネスコの世界記憶遺産登録を果たしていないという点である。

 軍国主義化の日本政府やナチスドイツの圧力に屈せず6000人ものユダヤ難民の命を救ったという素晴らしい行為は今後も長く語り続けられよう。せめて24年春までに登録が実現すれば敦賀延伸に箔をつけることは間違いない。

 ともかく高速交通体系の充実は人の動きをダイナミックにさせる。人、モノを高速、大量、快適、スマートに移動させる新幹線乗り入れともなればなおさらだ。

 今の緊急事態宣言下では考えられないが、Go・To・トラベル真っ盛りの昨年10月中旬、再び北関東の地に立った。もちろん金沢発着の北陸新幹線を利用して。

朔太郎の前橋文学館

 思いは高校時代に遡る。口語自由詩に革命的な発展をもたらした鬼才、異能の詩人・萩原朔太郎(群馬県前橋市出身、1886~1942年)の処女詩集「月に吠える」を朗読してくれた。

力のこもった声で朗読した後、T先生はこう言った。「朔太郎という人は、まるで月光に照らされた竹林のような、妖しげで、研ぎ澄まされた感性を持つ。それは、余すところなく数々の作品に反映されているが、彼の内部で増長する病理的、退廃的な圧迫に抗しきれず、神経衰弱をわずらって早くに死亡した」

 朔太郎の実の妹・アイは、争末期の一時期、抒情詩人の第一人者・三好達治と福井県坂井市三国町で共に暮らしたという。それは社会人となってから知ったことだったが、瞬時に高校時代の記憶が蘇るともに、朔太郎に対する興味が膨らんだ。アイはフランス映画のスクリーンから抜け出したようなふくよかで、エキゾチックな美貌の持ち主だった。

 朔太郎の偉業を顕彰する「前橋文学館」(鉄筋コンクリート4階建て)は街中の広瀬川沿いにあった。小さな橋を渡ると移築した朔太郎の生家「萩原医院」も現存する。2階フロアに朔太郎の偉業を顕彰する常設展示コーナーがあった。受付で手渡されたパンフレットには、冒頭に「口語自由詩の確立者として、日本の近代史に比類ない足跡を残した」と記されており、朔太郎は前橋市にとって格別の文学者であることが伺える。

 一口に美男子である。今でいうジャニーズ系の黒目勝ちの甘い眼差し、ハーフのようなキリリと引き締まった小顔、蝶ネクタイ姿の洋装でも、あるいは兵児帯を巻いた和服姿でも、育ちの良さは隠しようがない。展示されている家族写真や系図などを見る限り、長男の朔太郎も末妹のアイも母の八木ケイ(慶)の美貌を色濃く受け継いでいるようだ。

 その八木家は前橋藩主・松平家に仕えた武家だった。前橋松平家の起源は福井藩祖・結城秀康の五男・直基(なおもと)に遡るが、5代目の朝矩(とものり)、11代直克(なおかつ)、最終12代直方(なおかた)が同藩藩主となっている。

 一方の父・密蔵方の萩原家は現在の大阪市八尾市で代々医業を営んでいた。末弟の密蔵が妻の出生地(前橋市)で開業したいきさつは定かではないが、医師・密蔵は名医であり、運営する「萩原医院」が人気の医療機関だったことは想像に難くない。朔太郎も妹のアイも裕福な開業医の子弟として何不自由のない少年少女時代を送った。

 言わずもがな、朔太郎は多感な少年だった。幼少から弦楽器演奏などに親しみ、富裕層の持ち物の一つだった写真機を手に、前橋市内や郊外の撮影に出かけた。映画館街、繁華街、手つかずの自然が残る利根川上流域の風景、山の茶店...ファインダー越しに少年朔太郎が感動した風景が一枚、二枚、もう一枚という風に切り取られていく。そして、それぞれのモノクロ写真が少年の心の中に染み入り、郷土愛へと昇華していく。

 成人となってからの朔太郎は旅行を好んだようだ。フロアにはサイズ24・5~25・0センチほどの革靴と旅行カバンが展示されている。資産家で、音楽と文学を愛し、度々旅行にも出掛けては郷土愛を深めたであろう朔太郎の姿を容易に思い描くことができる。

シュールな感性が炸裂

 階段の吹き抜け部分に朔太郎の「帰郷」と題するこんな詩が掲げられていた。

わが故郷に帰れる日

汽車は烈風の中を突き抜けり。

ひとり車窓に目醒むれば

汽笛は闇に吠え叫び

火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。

まだ上州の山は見えずや

 後年移り住んだ東京から、一人前橋に向かう朔太郎の望郷の念は激しく強く、闇夜を切り裂くようにひた走る列車の速度さえもどかしい。「まだ上州の山々は視界に入らない」と嘆息する。

 初期の「竹」と題した作品では、朔太郎ならではのシュールな感性が炸裂する。

光る地面に竹が生え、

青竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より繊毛が生え、

かすかにけぶる繊毛が生え

かすかにふるへ。

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節りんりんと、

青空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

  昭和期最高の抒情詩人と称えられた三好達治は、師と仰ぐ朔太郎の才能を評し、「全く眼新しく輝かしい幻影、或いはとりとめもない希望となった」と賛辞を惜しまない。作家・堀辰雄も朔太郎の詩集「青猫」に触れて、「私が人生の入り口で、あれほど夢中になって自分を打ち込むことができたということは、随分いいことだったとおもふ」と述懐している。その文学的な目覚めは、人格形成期に強い影響を与え、後に名作「聖家族」「風立ちぬ」を生むことになる。

 末妹の萩原アイのことにも触れておきたい。繰り返すが、アイは素晴らしい美貌の持ち主だった。かねて好意を寄せていた三好は、東京帝大を卒業した昭和3年、アイとの結婚を決意するが、就職先の解散などでその思いを断念。アイは経済力のある他の男のもとに嫁ぎ、三好も別の伴侶を得る。

 しかし、太平洋戦争最中(さなか)の昭和18年、アイの夫が急死すると、三好は妻・智恵子に離婚を申し出るともに、所帯を持ってからも恋焦がれ続けていたアイに求愛。翌年5月に協議離婚が成立。三好は晴れて疎開先の福井県三国町にアイを呼び寄せて同棲生活に入る。

 好いた者同士とはいえ、必ずしも幸せな家庭を築けるとは限らない。「可愛さ余って憎さ百倍」とも言うが、男女関係の着地点は予測不可能だ。

 ただ、アイは文字通のお嬢さん育ちだったのに対して、三好は陸軍幼年学校出身で独立独歩の人生を歩んできた。しかも気が短い。アイのコメの研ぎ方、煮物の作り方、洗濯の仕方...気に入らないとなるとすべてが気に入らない。暴力に訴えることもしばしばだったといい、約8か月後の冬、アイは三国を去る。


 話は戻るが、前橋文学館のフロアには朔太郎が撮影した明治後期~大正期の前橋市街地、繁華街、映画館街、山野の風景写真が並ぶ。その一枚一枚を観賞していると、裕福な家庭に育ち、喜々として高級カメラのシャッターを切る少年・朔太郎の満ち足りた横顔が蜃気楼のように立ち上ってくるようだ。

 成人してからの朔太郎は、「俺は何のために生きているのか」という壮大な疑問に苦悶する時期もあったが、文壇や詩壇の人々との交流は広く、朔太郎の詩集に感銘を受けた青少年にも囲まれて、比較的恵まれた壮年期を送ったとされる。しかし、昭和17年5月、東京の自宅で死去する。まだ55歳だった。

涙腺がやばい

 JR前橋駅前の通称「ふるさとのケヤキ並木」には、大樹に守られるようにブロンズ像が立ち並び、文化・文芸のまちの雰囲気と旅愁を提供している。朔太郎には葉子という娘がいて、長じてダンサーとして、作家として活躍するが、そこに立つ親子の像は若き日の朔太郎と幼い葉子をモチーフにしたのだろうか。

 ブロンズ像は全長150センチ前後。父親はコートの襟を立て、胸に飛び込んできた娘を柔らかく抱き留めている。娘は風車を握った左手を、そして右手を父親の体に巻き付けて離そうとしない。父親は長い旅路から帰ってきたのだろう。大好きな父親の匂いがするコートに頬寄せる娘は今にも泣きだしそうだ。若い父親はそんな愛おしい娘を優しく見下ろしている。

 子を持つ親ならこのような珠玉の一瞬を永遠に忘れない。青臭い言い方をすれば、このような瞬間を味わうために生きているし、このような瞬間があるからこそ、これからも頑張って生きていこうとするのではないだろうか。いつまでたっても見飽きない。温かな思いがあふれて、不覚にも涙腺が緩みそうになる。

「気をいただこう」

 昭和の匂いが漂う商店街に忽然と現れた社を「熊野神社」という。前橋文学館とほぼ背中合わせにあり、大願成就の鎮守として街の人たちの信仰を集めている。地元では尊崇と親しみの念を込めて、「おくまんさま」と呼ぶ。その心は「恩熊野様」。大願成就の歴史は昨日や今日始まったものではないらしい。

 「熊野神社」は天照大神の弟・素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする。出雲国一之宮・熊野大社(松江市)より分社されたとされ、神使(神様のお使い)としての「八咫烏(やたがらす)」も祭る。八咫烏は開運をもたらす三本足の鳥として知られ、一抱えもある黒御影石の一枚石に直径30センチほどの全身像をあしらって本殿の壁面に安置する。平成の本殿修復の際に、礎石の中から三つ足跡のある礎石を発見したことにも由来するという。

 参拝者には、ポスター写真のように黒御影石に両手を当て、「八咫烏の気をいただこう」と勧める。魂が宿るとされる御影石と猛々しい姿の怪鳥・八咫烏。八咫烏はサッカー日本代表チームのシンボルマークとしても有名だ。

この際、写真の「八咫烏石」に強烈な願をかけ、日本代表チームの大活躍と自分自身の輝ける未来を手繰り寄せたい。

締めくくりは世界遺産の製糸場

 旅の締めくくりとして、平成26(2014)年にユネスコ世界遺産に登録された富岡製糸場(群馬県富岡市)を訪れることにした。同世界遺産は製糸場と関連の絹産業遺産群から成るが、製糸場がその中心にあるのは間違いない。明治5年10月に操業開始。わが国が近代化へ向かうときのトップランナーであり、殖産興業政策の模範工場でもあった。近代日本資本主義の父・渋沢栄一も明治新政府官僚時代に創設に携わる。

 高崎駅発着の私鉄・上信電鉄を利用して富岡市に向かうことにした。特別に高崎­―上州富岡駅の往復切符が発売されているうえ、富岡駅止まりの列車も多く、世界遺産登録が乗客増に貢献している事実を窺い知る。


 正午すぎの列車に乗って約40分。木材をふんだんに使って小ぎれいにリニューアルされた駅頭に降り立つ。駅から歩いて15~20分、かつて社会科の教科書で何度も目にした長大な赤レンガ造りの建物群が街中に姿を現す。さすが世界遺産だ、ウイーク・デーなのに入場者の足が絶えない。

 製糸場の敷地面積は5万3700平方㍍。入場してすぐの東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、最奥部の西置繭所、繭から生糸を取る作業が行われていた繰糸所(そうしじょ)はいずれも国宝、検査人館、女工館、首長館(別名・ブリュナ館)の3館はいずれも重要文化財に指定されているが、製糸工場として昭和62(1987)年まで操業を続けていたとは、正直言って「驚くばかり」である。


 手渡された説明書によると、新政府の肝いりで機械製糸の先進国だったフランスから技術導入し、建造物についても幕末期に江戸幕府と友好関係あったフランス海軍の技術を継承して、木骨レンガ造りという工法で築造。特に国宝指定の3施設は、トラス構造の広い内部空間を持ち、耐久性にも優れているという。しかも、江戸時代から続く日本の伝統的技術も生かされ、建築現場では日本の大工や職人らが活躍したらしい。ゆえに21世紀の私たちも、殖産興業の始まりの姿をこの目で確認することができるのだ。

ほかにも、製糸に欠かせない大量の水を貯める巨大鉄製水槽や、レンガ積みの地下排水溝などと、随所に技術者の知恵と熱意が凝縮されており、この製糸場を単に客寄せの観光資源の一つととらえるのは余りにも浅はかである。広い製糸場の各所、各館、各設備には近代日本の夜明けに立ち会った人々の真剣な息遣いさえ感じる。

 福井市一乗谷の一乗谷朝倉氏遺跡(国特別史跡)もいずれユネスコ世界遺産に登録されると確信する。基本的に建物の礎石や庭石、織田信長軍の焼き討ちで焼失しなかった発掘物類が残るだけだが、そこからも室町時代末期の人々の息遣いを感じるからだ。そして、学べば学ぶほどに観光資源としても重層な魅力に包まれていることを知るからだ。

 ここに富岡製糸場の草創時期に女工として活躍した一人の女性の生々しい日記「富岡日記」がある。


 筆者は長野県旧松代藩士の娘で、名を横田英(よこた・えい)と言う。英が見送りの人たちに連れられ製糸場に到着したときの印象について、「実に夢かと思うほど驚きました。生まれまして煉瓦(れんが)造りの建物など、まれに錦絵ぐらいで見るばかり、それを目前に見ますることでありますから、無理もなき事かと存じます」と記す。

 ついに念願の一等工女に選ばれた瞬間の喜びを、「私どもは実に心配で立ったり座ったり致しておりますとその内に呼び出されました。横田英一等工女申し付け候事と申されました時は、嬉しさがこみあげまして涙がこぼれました」と報告している。

 富岡市富岡製糸場課主事の髙橋優太さんに世界遺産登録後の入場者数の推移を伺う。登録初年度の2014年は133万人、翌15年は114万人台と高水準で推移したが、17年は63万人、18年は51万人、19年は44万人台と低迷気味だ。20年の数字は新型コロナの影響で参考にならない。

果たして19年で底打ちしたのかどうかの予測できないが、入場者数だけで一喜一憂するのはナンセンスだと言わざるを得ない。ほぼ一巡して、次に訪れる人たちは工業立国・日本の曙をしっかりと確かめたいとする、コアな人たちではないだろうか。それはユネスコの精神にも合致する。 

 それにしても、新しい国造りにフォーカスする明治の人たちの姿勢にいささかのブレも見られない。我が国資本主義の父・渋沢栄一しかり、一等女工だった横田英もしかり。同製糸場ではその熱き体温をじかに感じ取れるような気がする。現代の日本人がどこかに置き忘れてしまった原始的な体温を。(了)

© 2020 吉川博和
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