関 東 探 訪 (美しき日本を訪ねて)

 やや旧聞に属するが、昨年11月中旬、かねて興味を募らせていた南関東と北関東の名所、旧跡を訪ね歩く機会に恵まれた。南関東は三浦半島の玄関口に当たる横浜市金沢区、北関東は初代福井藩主・結城秀康の五男・直基ゆかりの群馬県前橋市、天皇の忠臣・新田義貞を生んだ同県太田市(新田荘)、さらには中近世最高峰の学問所・足利学校(栃木県足利市)にも足を延ばした。

 今、わが国も新型コロナウイルスの感染拡大で試練のときにあるが、優れた先人たちは幾多の絶望的な困難を乗り越え、歴史を今に繋げてきた。国民の義務として不要不急の外出を控え、コロナ禍の終焉を願いながら、そうした先人たちが後世に残した足跡をなぞっていきたい。

 旧伊藤博文金沢別邸(横浜市金沢区)

 初代内閣総理大臣・伊藤博文が1898(明治31)年に結んだ「金沢別邸」(横浜市指定有形文化財、かやぶき屋根海浜別荘建築)へは東京・品川駅から京浜急行(京急)の急行電車で30分余、東京湾に臨む金沢八景駅で下車。同駅に接続する海浜モノレール「横浜シーサイドライン」に乗り換え、ひと駅先の「野島公園駅」から湾岸伝いに歩くこと約5分。波穏やかな浜辺に、瀟洒で、素朴な佇まいの海浜別荘が姿を現した。「これが近代日本の礎を築いた立志伝中の人物・伊藤博文の別宅か」。感動を禁じ得ない。

 元長州藩士。下級武士でありながら、類まれな処世術と語学力、行動力で明治維新の立役者の一人となり、新政府の最重要人物として、近代日本の骨太の骨格を整える。

 別邸の正門に向かって左側が海、右側の松林の向こうに民家が立ち並ぶ。一帯は江戸時代から景勝地として名高く、浮世絵師・安藤広重も旅情あふれる「野島夕照」を今に遺している。

 台所、客間、居間の平屋3棟が縦横に連なる堂々たる構えの外観にしては、小ぶりな印象の玄関から建物内へ。入場無料だが、目の前に設(しつら)えられた運営協力金箱を黙殺するわけにはいかないだろう。

 手渡されたパンフレットによると、台所、客間、居間の計3棟からなり、1898(明治31)年に建築。著しい老朽化に伴い、2007(平成19)年に解体と同時に、復元に向けての調査を実施。解体復元と新築復元を併用して、創建時の姿に戻したという。09年10月に完成。指定管理者の公益財団法人・横浜市緑の協会が管理・運営する。

 客間棟の北東方向に広がる海(東京湾)は穏やかな表情を崩さず、鍵盤の上を滑るピアニストの指のような繊細なタッチで、目の前の渚を優しくリズミカルに洗い続ける。受付の女性職員は「多忙な伊藤博文公が滞在するのは年に数日間だけ。でも、故郷の萩(山口県)に似た海岸の風景を愛でながら、心身を癒していたのでしょう」と思いを寄せる。

 伊藤は1885(明治18)年、初代内閣総理大臣(首相)に就任。プロイセン(ドイツ帝国)の憲法を模範にして、憲法草案を練り、89年に大日本帝国憲法を発布。通算4度の首相と枢密院議長、初代韓国統監を歴任。1909(明治42)年10月26日、訪れた中国黒竜江省(満州)のハルビン駅で韓国民族主義者の安重根の凶弾に倒れる。享年68。

 一介の下級武士から、侯爵まで駆け上った伊藤の功績面を上げつらえばきりがないが、韓国を保護国として位置づけ、かの国のインフラ整備、教育振興などに残した足跡は識者の間でも高い評価を受ける。伊藤の暗殺を契機に韓国は日本に併合されることになるが、皮肉なことに生前の伊藤は植民地化に結びつく併合策には反対だったという。

 こんなエピソードがある。日韓協約による保護国支配に不満を募らせた高宗皇帝は、オランダで開かれた国際会議に密使を送り込んで盛んに日本支配の不当性を訴えるが、どの国も取り合おうとしない。「聞きつけた伊藤博文は、『そんなに不満ならこの場で宣戦布告したらどうか』と高宗に言った」(山本博文著「流れをつかむ日本史」より)とされる。

 白砂青松の優美な湾岸に面し、三方向から日差しが差し込む広々とした客間には伊藤直筆の書が掲げられている。

 今、国際情勢は緊迫の度を深め、韓国との関係も不協和音が鳴り響くが、海千山千の伊藤公ならどのように対応していくのだろうか。几帳面で優しげな書体の向こうで息をひそめている、近代政界の巨星に問い掛けてみる。

金沢文庫(中世知の殿堂)

 横浜シーサイドラインの野島公園駅から再びモノレールに乗り、ひと駅先の「海の公園南口駅」で下車。潮風を背に10分ほど歩けば鎌倉中期に北条氏一門の金沢北条実時が草創し、その後も3代に渡って収集した和漢の古書、古文書、美術工芸品などの数多くの文化財を収めた神奈川県立「金沢(かねさわ)文庫」に至る。金沢北条氏の菩提寺・称名寺(真言律宗)に隣接し、創建時と同様に境内からトンネル状の通路を辿って文庫に入館する。

 国宝を含む約20,000点の文化財を収蔵。中世の知の殿堂として足利学校(栃木県足利市)と双璧をなすが、同施設は解明にいそしむ多くのスタッフを抱え、中世歴史博物館としての側面を併せ持つ。現在の和風・モダンな建物は1990(平成2)年に新築された。

 豊富な文化財をベースにして、各種講座や企画展も意欲的に開催されているが、訪れたこの日は9月21日から11月17日まで続く「聖徳太子1400年遠忌特別展・聖徳太子信仰~鎌倉仏教の基層と尾道浄土寺の名宝~」の開催最終週の週末だった。

 秋の気配が濃厚に漂う好日。エントランスホールにも柔らかな日が差し込み、静謐な時間が心地よく流れていく。旅の途中にしては、悪くない、むしろ贅沢なひと時と言った方が良いのだろう。

 さて、聖徳太子(574~622年)。古代日本の黎明期ともいえる飛鳥時代の天才的政治家で、宗教的思想家でもあった。推古天皇(女帝)の皇太子として政務に尽くし、十七条憲法や冠位十二階の制定者、日本仏教の確立者としても知られる。

 鎌倉時代、ときの宗教者たちによって聖徳太子信仰が全国に伝播されていく。その活動の中心にいたのが、浄土宗の開祖法然、浄土真宗開祖の親鸞であり、真言律宗宗祖の叡尊、その弟子の忍性だった。

 親鸞は北関東各地で布教活動を展開し、北条実時の熱心な招きで奈良から下向した叡尊はその庇護を受けて鎌倉仏教界に君臨した。叡尊の命を受けて北関東布教に赴いた忍性も太子信仰層を広めていく。さらには叡尊に師事した律宗の高僧定証も、九州布教の途中に立ち寄った尾道(広島県)で、古刹・浄土寺の再興に関わったのを縁に同所に腰を落ち着け真言律宗と太子信仰の布教に専念。後に足利尊氏、賢弟の直義(ただよし)とも親しく交流する。

 こうしたことから北関東(特に茨城県)の浄土真宗系寺院や尾道・浄土寺(現在は真言宗泉涌寺派大本山)には聖徳太子信仰関連の遺品(仏像、仏画、文書)が伝わっており、今回の特別展開催に当たってはいずれの寺院も惜しみなく"寺宝"を出品したという。週明けからは館内設備の調整で長期の休みに入る関係で、リピーターも含めて客足は良好。解説員の熱の入った説明が入場口から聞こえてきた。

 説明によると、現在の私たちに伝えられている聖徳太子像は鎌倉時代につくられたものだという。国の黎明期に権力者の大連(おおむらじ・最高執政官)の物部氏の反対を退け、大臣(おおおみ・同)の蘇我氏の支援を得て仏教導入を決断した英明な太子。今となっては1400年前の実像に迫ることはできないが、太子信仰が再燃した鎌倉時代に彫像された南無仏太子像(聖徳太子2歳像)、孝養太子像(同16歳像)、摂政太子像(同成人像)などに太子の面影をしのぶことができる。

 初の武家政権の鎌倉時代だけに武断政治の世という印象が強いが、前述のように執権・北条氏一門の金沢北条氏は仏教(真言律宗)と太子信仰に篤く、後の為政者が垂涎してやまないほどの和漢の名著を収集した。裕福な有力武家とはいえ、文化財保護への熱意と事績は傑出している。

 「重要文化財、国宝、国宝、重要文化財、国宝...」。ボランティアガイドの古谷忠志さんの説明に耳をそばだてる歴史ファンたち。こちらも感性や頭をフル回転させながら数々の展示物を追いかけていく。旅に出たら美しい風景を愛でながら、山海の珍味に舌鼓を打つのも良いが、少し背伸びをして全身全霊で一流の美術品や文化財を味わってみるのも悪くない。


浦賀、久里浜(ペリーが来た町)

 「泰平のねむりをさます じょうきせん たった四はいで 夜も寝られず」

 今更説明するまでもないが、ペリーの「蒸気船」をカフェインたっぷりの「上喜撰(上質の宇治茶)」になぞらえ、上を下へと大騒ぎする幕末の世情を皮肉ったあまりにも有名な狂歌である。

 1853(嘉永6)年6月、米国東インド艦隊司令長官・ペリー率いる4隻の軍艦(黒船)が浦賀沖に来航した。翌7月、近くの久里浜に上陸し、浦賀奉行・戸田伊豆守(氏栄)に開国を求める大統領親書などを手渡す。ペリーは翌54年早々、7隻の軍艦を率いて再来航すると、同年3月、強引に日米和親条約を締結。これにより2百年余り続いた「鎖国」が終了した。

 歴史の表舞台となった地域を散策するという高揚感は格別だ。この章ではいったん時計の針を4か月ほど先に進めてしまうが、新型コロナ第一波が全国的に猛威を振るう直前の今年3月下旬、川崎市に住む長男を訪ねた折に、三浦半島先端の神奈川県横須賀市浦賀にまで脚を延ばすことにした。

 半島の春の訪れは早い。海も空も青く輝き、山の新緑が目にまぶしく、解放感も万点。京浜急行浦賀駅直行便で川崎から約40分。山肌に設けられた終着駅から細長い入り江を囲むようにして広がる街中に出る。

 入り江は天然の良港といったところか。貨物船やプレジャーボートの船着き場が連なり、しばらく行くと入り江はさらに開けて、浦賀水道を行きかう船舶の姿が確認できるようになる。大気も澄んで太平洋と東京湾を隔てる雄大な房総半島のシルエットもくっきり。旧浦賀船番所跡地に設けられた小休憩スペースで一息つく。説明板によると、ここでは明治5年まで江戸に出入りするすべての船の乗組員と積み荷の検査をする「船改め(ふなあらため)」が行われ、昼夜を問わず与力や同心らが詰めて監視の目を光らせたという。


 だとしたら、今から約170年前の夏のある日、見たこともない真っ黒な船体の蒸気船4隻を目撃した当時の与力、同心、市井の人々の驚きは一体どれほどのものだったのだろうか。まさに、「夜も寝られず...」だったのかもしれない。

 休憩スペースのウッドデッキに両脚を投げ出し、一緒にやってきた連れ合いに恐る恐る「ここまで来たら、先端を迂回して久里浜(横須賀市)まで歩いてみる?」と提案すると、「もちろん」と快諾を頂いた。久里浜はペリー上陸地点だが、歴史好きでなくとも春の岬巡りは気持ちが良いらしい。

 途中、リゾートマンション近くで海産物の無人販売を覗き、新ワカメの天日干し小袋(100円)を手に入れ、ペットボトルのお茶とともに一つ、二つと口の中に放り込む。ぱりっとした歯触りと、さわやかな磯の香り。期待通りの食感、そして期待を上回る美味しさ。気分も足取りも軽い。サイクリストの一団を目で追いかけながらトンネルを抜け、緩い勾配の県道を下りていくと、やがて久里浜の街に出る。

 「開国橋」と名付けられた小高いコンクリート橋を渡ると、優雅に湾曲したビーチが忽然と現れ、そのビーチが切れるあたりに「ペリー上陸記念碑」を置く「ペリー公園」があった。つまりこの町の履歴は「ペリー」「上陸」「開国」の三つの文言に集約されてしまうようだ。

 上陸記念碑設置の発案者は当時の米友協会会長の金子賢太郎(官僚、法律家、政治家)で、「北米合衆国水師伯理(ペリー)上陸記念碑」の碑文は伊藤博文の手による。高さ5メートル余りの自然石の岩盤に和英の碑文。金子は伊藤とともに大日本帝国憲法の草案を起草した人物としても知られるが、ペリー上陸記念碑設置にあたっては国外にも資金を求めたという。1901(明治34)年、上陸記念日の7月14日に除幕された。

 余談にはなるが、太平洋戦争中は「敵国を礼賛する」として引き倒されてしまった。戦時中の1942(昭和17)年5月、記念碑設置に力を尽くした金子は89歳の生涯を閉じるが、終戦直後の45(昭和20)年11月、碑は平和と友好の象徴として現在地で復活した。

 公園内にはこのほか、冒頭で紹介した狂歌、ペリー上陸時の様子を描いた有名な絵画(ハイネ作)の複製、ペリー記念館(閉館中)、戸田伊豆守とペリーのブロンズ像などがあり、ここから開国の歴史がスタートしたことを市民や観光客らにPRしている。

 記念碑の周りでボール遊びに興じる子供たちもいれば、ペリー艦隊の航跡を示す銅板のレリーフを興味深そうに眺める子供も。のどかな風景の中に、日米友好の歴史の深さと平和の尊さを感じる。

 もう一つ余談がある。ペリー二度目の来航の折、伊豆の下田沖(静岡県)に停泊中の艦艇に二人の若い侍が無断で乗り込んできた。名を吉田松陰、もう一人は金子重之輔。二人は米国に密航したいと直談判するが、ペリーは「米日両国政府の友好に水を差す可能性がある」と懸念して、二人を陸に戻してしまう。だが、松陰らの果敢な行動には感心し、後に「二人の教養ある日本人が、死の危険を冒しても知識見聞を広めようとしたのである。(中略)こうした日本人の性向の中に、どれほど希望に満ちた将来が読み取れることか」(「猪口孝が読み解く『ペリー提督日本遠征記』」の一部を引用した山本博文著「流れをつかむ日本史」より)と書き残している。

 つまり、一流の人は一流の人を見抜く目があり、一流の国家の確かな将来像を見逃さない。そして、その後、日本はそうなった。マシュー・ペリー提督にとって極東の島国・日本は太平洋の荒波を乗り越えてもなお、執拗に開国を迫るだけの魅力あふれた黄金の国(ジパング)だったのだ。

難攻不落の城跡を歩く(群馬県太田市)

 再び昨年11月に戻る。南関東から、北関東の史跡巡りへと話を進めていきたい。下りの北陸新幹線で帰郷(福井)する計画を立て、ひとまず高崎駅(群馬県)で下車しJR両毛線に乗り換えて普通列車で約15分。列車は晩秋の夕日を浴びながら、県庁所在地の前橋駅(同)に滑り込む。

 藩政時代の前橋は歴代藩主の格式が高く、「関東の華」と呼ばれるほどに御城下の整備も行き届いていた。歴代藩主は、酒井雅楽頭(うたのかみ)家、松平大和守(やまとのかみ)家、秋元越中守家、牧野駿河守家の4家から派遣されている。

 うち、松平大和守家は福井藩にゆかりの松平直基(なおもと)=福井藩祖・結城秀康五男、越前大野、勝山藩主=が興した。5代当主の朝矩(とものり)が初めて前橋藩に入封。その後の当主たちは約100年にわたって川越藩主を引き継ぐが、11代直克が前橋に再入封し、12代の直方で、大政奉還を迎えた。直克は度重なる河川の氾濫などで消失した前橋城の再建を果たしている。

 いずれの藩主も名君だったのだろう。福井との関係を知れば知るほど、この町や町の人々に親近感を覚えてしまうのは致し方ない。駅前のビジネスホテルに二泊三日の予定で投宿。ここを拠点に新田義貞ゆかりの金山城跡(群馬県太田市)とフランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と絶賛した、史跡足利学校(栃木県足利市)を巡ることにした。秋の日暮れは早く、松平大和守家が収めた静かな町に美しい星空の夜が舞い降りる。

 翌朝も好天。雨具類を一切持たない軽装で、両毛線で伊勢崎(群馬県)に向かい、伊勢崎駅からは東武鉄道の東武伊勢崎線を利用して国史跡・金山城跡(山城)のある太田市(同)を目指す。軽装といっても、使い慣れたリュック、コンパクトカメラ、メモ帳、時刻表は肌身離さずに。

 太田駅には昼前に到着。駅前には等身大より一回り大きい(?)新田義貞のブロンズ像が設置されており、武家の名門・新田氏が実質的に支配した荘園「新田荘」の中心地だったことをアピールしている。堂々とした体躯と苦み走った表情。執権・北条一族が牛耳った鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」を唱えた後醍醐天皇(南朝)を盛り立てた猛将だった。

 しかし、南北朝初期、敵対する足利尊氏の北朝軍に追い立てられて越前福井に逃れ、1338(暦応元)年7月に、藤島の戦いで非業の最期を遂げる。享年36。現在は福井市の足羽山にある藤島神社で、祭神として祭られている。

 新田義貞がこの世を去って約130年後の1469(応仁元)年、新田一族の岩松純家が山城「金山城」築城に着手した。京都では応仁・文明の乱(77年まで)が泥沼化の様相を呈していたが、8代将軍・足利義政は文化・遊芸の世界に逃避するばかりで幕府の権力は一気に弱体化。中世日本は戦国時代に突入した。

 金山城にあっては、主君の岩松氏を排して配下の横瀬氏(後の由良氏)が実権を握るとともに、城の縄張りを金山全山の約300ヘクタールに拡大した。同時に防御機能も充実させ、「難攻不落の山城」としての世評を高める。実際、有力戦国大名の上杉氏や武田氏らが火の出るような猛攻を仕掛けても、城の中枢域までは進攻できなかったという。

 市街地の北方にある金山城跡には太田駅から直線距離で約3キロ。路線バスなどの運行はなく、歩いて行くには少し厳しい。駅前でタクシーを拾い、金山の麓にある城跡案内施設を経由して、城跡域に足を踏み入れることにした。正午を少し過ぎても空はまばゆく輝き、突然の風雨に悩まされる心配は皆無。車窓を晩秋の街並みが流れてゆく。

 やがてタクシーは緩やかな登り坂の途中にあるモダンな建造物の前で停車した。そこが案内施設「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」=太田市金山町=だった。鉄筋2階建て。新国立競技場をデザインした隈研吾事務所が手掛けた建物で、狭隘な斜面を巧みに利用ながら、ゆとりあるスペースや機能性を確保し、石垣をイメージした外装で史跡との調和も図っている。

 前置きが長くなってしまったが、早速、同施設職員の宮田毅さんに時間を割いてもらって、新田氏や金山城跡の魅力について伺う。

 説明によると、新田、足利両氏とも武家の名門・清和源氏の流れをくむ平安末期の武将・源義国の子・義重、義康を祖とする。それぞれ上野(こうずけ)国・新田荘=今の群馬県=と、下野(しもつけ)国・足利荘=栃木県=を開発し、一帯の支配者となる。ただ、新田氏は草深き田舎の武将として「武骨一辺倒」を旨としたが、足利氏は中央政権との関係にも気を配り、一族の存在感を高めていく。その結果、新田氏8代目の義貞は南北朝動乱の犠牲となるが、同時代の足利尊氏は征夷大将軍となって室町幕府を開く。

 足利氏の処世術の巧みさは、ある意味、室町幕府第15代将軍・足利義昭その人に象徴されるのかもしれない。義昭は時の権力者(朝倉義景、織田信長、毛利輝元ら)の間を渡り歩き、「将軍後継者」「将軍」、あるいは「元将軍」としての誇りを保ちながら、混乱の世をしぶとく生き抜いた。

 同ガイダンス施設の2階フロアに置かれた畳3~4枚分ほどの規模の金山城跡復元模型は圧巻だった。現場の石垣や土塁、堀切などの実測に基づき、精密な櫓や柵、塀、門などを縮尺・復元し、城兵や敵兵のミニチュア人形をそこここに配置して実戦さながらの合戦図を再現している。

 「➀鳥➁城兵③敵兵の3つの視点で眺めてください。"難攻不落城"の秘密の一端を知ることができます」と宮田さん。目の前のジャンボな立体模型(復元模型)の中からは、決死の攻防戦の雄叫び、刀や槍がぶつかり合う金属音、断末魔のうめき声さえ聞こえてきそうだ。

 ➀の鳥の目で見ると、幾多の石積み、幾筋もの堀切、くねくねの一本道と、いかにも攻めにくそう。進行方向の右下は深い崖、左上の土塁からは弓を持つ城兵たちが狙いを定めている。➁弓を構える城兵たちにとって、進軍する敵兵たちがしっかりと射程内にあり、しかも下に向かって射るので命中率が高い。③の視点では、絶妙なトリックで先発隊の進攻がはばまれる。例えば城の中枢部に続く進入路(一本道)が虎口付近で急に下降しており、道が寸断されているような錯覚に陥る。

 そして、ようやく三の丸前の大手虎口に攻め入っても、「奥行きの深さに、敵兵たちは得体の知れぬ恐怖を覚えるに違いない」(宮田さん)という。遠近法の妙を利用して、大手虎口付近の道は幅広く、奥まるにつれて狭められ、実測をはるかに上回るスケールを感じさせる。敵兵の一気呵成の侵入をためらわせる効果が期待できるのだろう。

 と、ここまでしっかり事前学習した後、いよいよ城跡に向かうことにした。ガイダンス施設からは案内板に従い、徒歩で城跡観光のスタート地点を目指す。あくまでも私見だが、歴史的建造物や史跡、旧跡などを観光する場合、事前にそれなりの知識を仕入れておくかどうかで得られる感動の深さが全く違うと思う。単に観光気分で「戦国時代の山城らしいよ」「頂上からの眺めは必見だって」ぐらいのノリだと、「凄い」「きれい」「楽しかった」で終わってしまいそうだ。

 スタート地点のモータープールから降りてくるマイカー客に交じって頂上の本丸へと誘ってくれる石畳の一本道をひたすら歩く。並行して頂上へ通じる観光道路も整備されており、さっさと徒歩からマイカーや観光バスでの探索に切り換える観光客もいるが、あらかじめ「山城歩きは辛い」と肝に銘じている私は、履き古したスニーカーが破れないようにと祈りつつ、アップダウンを繰り返すくねくねとした一本道を額に汗して歩き続ける。

 戦国武将・朝倉氏の一乗山城(福井市)や、新田義貞が立て籠った杣山城(南越前町)もそうなのだが、山城探索は結構な山登りに等しい。観光気分で足を踏み入れるととんでもないことになる。噴き出る大汗をぬぐい、痛む膝関節をさすりながら初めて、「山城攻略には、守りの10倍の兵力が要る」との通説のリアルを体感することになる。

 城中枢部への第一関門の虎口跡までやって来た。ガイダンス施設内の復元模型が示す通り、石畳の道が堀切の向こうへ落ち込んでいるように見え、敵兵の先発部隊がここで足止めを食らったのかもしれない。身長165センチの私の目でもそのように錯覚するのだから、同155センチ前後と推定される当時の兵隊たちの目には「通路が寸断されている」と映るのは間違いない。部隊の行き足が止まれば待ち構えた射手にとって格好の標的になる。

 深い堀切、壮大な竪堀、敵兵をさらにかく乱させる行き止まりの通路を経て、警護の城兵が待機した曲輪(くるわ)跡を通過すると、中枢部入り口の大虎口に到達する。ガイダンス施設の宮田さんの説明の通り、大虎口から内奥へ続く階段状の通路は次第に狭められており、当時の虎口門を通して眺めると異様なスケール感に圧倒されてしまいそうになるだろう。通路の両脇に連なる見上げるばかりの堅固な石垣は、その奥に待ち構える城主の強大な力を印象付ける。

 通路を上り詰めた所に火口のようなくぼ地がぽっかりと口を開けていた。その底に目をやると、UFOの発着場かと錯覚するばかりの大きな円形の石組みの池が認められるではないか。戦勝祈願や雨ごいなどの儀式に使われた「日(ひ)ノ池」という。その形状はおおよそ日本的ではなく西洋的。有名な英国ソールズベリーにある祭祀(さいし)遺跡「ストーンヘンジ」(世界遺産)を連想させる。何気なく通り過ぎてしまっていたが、先の大虎口の左脇にも小型で同じ形状の「月ノ池」が設けられている。それらは太陽や月を崇拝する、「環状列石(ストーンサークル)」と言い切ってもいいのではないか。

 なんとスピリチュアルで、宇宙的で、神聖な城跡なのだろう。月や星や太陽が鏡のような水面にくっきりと映ると、周囲の城兵たちから感嘆のため息が上がり、天空から降り注ぐ見えざる力にひれ伏しながら「武運長久」の祈りを捧げたのだろう。戦国動乱の世は、戦場を駆け巡る武将にとって、その帰りを待つ女房、子供にとっても、実に厳しい時代だったのだ。負けはすなわち、死に直結するのだから。

 スタート地点から40~50分も歩いただろうか、樹齢800年と伝わる見事な枝ぶりの大ケヤキ(市天然記念物)を仰ぎ見ながら頂上(本丸跡)に鎮座する新田神社に到着した。同神社は1875(明治8)年に鎌倉幕府討幕の立役者・新田義貞の遺徳を後世に伝えていくため、地元の有志たちが資金を出し合って創建したとされる。福井市足羽山の藤島神社を参拝するときと同様に、「お導きあれ」と深く頭を垂れ、心静かに手を合わせる。

 義貞がこの世に生を受けたときは、ケヤキはすでに樹齢約100年の大木となっていたが、それからも大地に深々と根を張り、新田一族や新田荘、金山城の栄枯盛衰を見守ってきたのだろう。頭上の日はやや西に傾きかけているが、金山の大気は明るく澄んですがすがしく、神々しい。


坂東の大学「足利学校」(栃木県足利市)

 前橋駅からJR両毛線の普通電車に揺られて1時間、栃木県足利市の足利駅に着く。「日本最古の学校・足利学校まで500メートル」。いきなり目に飛び込んできた立て看板の矢印を頼りに、寒風に身震いしながら歩を進める。11月の北関東の空は青く澄み切っているが、吹き抜ける風がことのほか冷たい。

 少し回り道をしたが、駅から歩いて15分ほどの街中に足利学校(国史跡、日本遺産)はあった。最初に「入徳門」を通り抜け、有名な『學校』の額を掲げた「学校門」の前で、受付で手渡されたパンフレットに目を落とす。仰ぎ見る門はシックな中国風の意匠。かつてここの学生たちが孔子の教えに基づく「儒学」を中心に学んでいたことに由来するらしい。折から学校門脇の大イチョウが真黄色に色づき、秋空とのコントラストが目にも鮮やか。

 全国各地から集まった学生たちは学問の世界に於ける青雲の志を抱いて、由緒あるこの門をくぐったことだろう。剃髪し、墨染めの衣を身に着け、学僧然とした若々しい学生たち。それを思うと無意識に身が引き締まる。


 では、足利学校とはいかなる学問所なのか。学校創建については、奈良時代の国学の遺制(いせい)説、平安時代の小野篁(たかむら)­=漢詩人、歌人=説、鎌倉時代の足利義兼=足利氏草創期の武将=説などがあるが、歴史の表舞台に登場するのは、室町時代の関東管領・上杉憲実が現在の国宝に指定されている多くの漢籍などを寄進し、学校再興を果たしてから。そこでは学長制度を設けるなどして、「学校」としての内容を整え、「学徒三千」を誇る教育機関に育て上げた。底流には「自学自習」の精神が流れ、学生たちは日夜、漢籍などを教材にして「儒学」「易学」「兵学」などの学習に励んだという。

 当時、キリスト教布教のため来日中だったフランシスコ・ザビエル(スペイン、イエズス会創始者)は足利学校の存在を知り、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東(関東)の大学」とイエズス会本部に報告。以来、多くの学生や文人、学者を受け入れ、名実ともに大学としての実績を積み上げたが、江戸末期にはその役割を終え、明治初めに閉校した。ただ、「教育の原点機関」としての評価は高く、昭和50年代後半から平成2年にかけての「保存整備」事業で、江戸時代中期の姿に復元。2015(平成27)年に日本遺産に認定された。関係者は「次は世界遺産登録を目指す」と口をそろえる。

 主な建造物のうち、「入徳門」「学校門」「孔子廟」などは江戸期に、「収蔵庫」と「遺蹟図書館」はそれぞれ昭和、大正期に建てられ、そのまま現代に引き継がれている。書院造りの「方丈」、学校の台所である「庫裡」、学長の書斎だった「書院」、学生たちの生活の場だった「衆寮」などは昭和後期~平成の保存整備事業で往時の姿に復元された。

 だが、同学校のもう一つの魅力は、収蔵庫や図書館で保管する和漢、朝鮮の典籍類(古書)の豊富さだ。その数計1万7千冊に達し、うち国宝4種、77冊、重要文化財8種、98冊を数える。「学徒三千」の学生たちや文人、学者たちはこれらをむさぼるように読んだに違いない。

 分厚いかやぶき屋根の庫裡から入り、棟続きの「書院」、「方丈」に回ってみる。学生たちの個人授業も行われたという書院前には1996(平成8)年10月にベルギー国王ご夫妻をお招きして、晴れやかで慎ましい笑みを浮かべられる当時の天皇、皇后両陛下(今の上皇ご夫妻)の写真が掲げられており、参観者からは「お二人とも若くて、凛々しい」との歓声が上がる。

 広々とした書院造りの「方丈」は学生への講義や、それぞれの学習の場として活用されたらしい。ときは正午ごろ。この時間になると、朝の寒さはやわらぎ、降り注ぐ暖かな日差しが心地よい。職員らは軒下などで大量の座布団干しにいそしんでいた。

 帰り際、事務所次長の攪上(かくあげ)修司さんに、参観者数の推移などを伺った。曰く「日本遺産認定翌年の平成28年には、一気に20万人の大台を突破しましたが、その後は年間16万人前後に落ち着いています。今年は秋の記録的大雨の影響で伸び悩んでいるが、これからに期待したいね。『足利学校の学徒三千』のうたい文句?...あれは『大勢』という意味に理解してもらえれば」と屈託がない。 

 「入徳門」前のソバ屋で遅めの昼食とソバ焼酎のお湯割りを胃袋に収め、お腹をさすりながらふらり、ふらりと根無し草のような足取りで駅に向かう。私の場合、ふらり、ふらりは、非常に満足した状態なのである。高崎駅(群馬県)で三日間お世話になった両毛線に別れを告げ、豪雨禍から復活した北陸新幹線に乗り換える。「歴史を巡る旅って、マジ面白いよなぁ」。夕闇を一直線に切り裂いて一路金沢に向かう「はくたか569号」の車中で独りしみじみ悦に入る。

◆ホームページ掲載後に金山城保存会の副会長宮田毅様より御手紙をいただきました。取材お礼も含めてご紹介させていただきます。

 この度はHP「吉川博和の部屋」のコピーをお送り頂きありがとうございました。臨場感のある文章で金山城の魅力が良く伝わっていると感謝申し上げます。日本百名城の関係で来城者は増えておりますが、(中略)このような形で発信していただけることにありがたく思う次第です。金山城保存会 副会長兼事務局長 宮田毅  令和二年十月一日

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