鬼辺輪中を歩く

~誰が「鬼滅の刃」を振るったか~

 まさにコロナ禍である。ウイルスという目に見えない脅威が社会や経済、私たちの生活や心身そのものをむしばむ。真綿で首を締めるように、執拗に、陰湿に、徹底的に。私のような高齢かつ基礎疾患持ちはひとたび感染すればかなりヤバイ。三密回避、マスク着用、うがい、手洗いの励行は、文字通り"生へのパスポート"かもしれない。

 そういう意味では、自然美豊かで、新鮮な食材を入手しやすい田舎こそ、少しの不便を我慢すれば今や理想的な環境なのかもしれない。人口密度が低く、空気がきれいで、受けるストレスも少ない。コロナワクチンが社会の隅々にまで浸透するまで、山紫水明な生まれ故郷に腰を落ち着け、じっくりと足元を照らした方が良さそうだ。「灯台下暗し」とも言うではないか。

 前置きが少々長くなってしまったが、コロナ禍に倦んだ私たち癒すように11月最後の日曜日(29日)に、地元・福井県坂井市教育委員会主催の生涯学習フィールドワーク講座「鬼辺(きべ)輪中を歩く」が開かれた。鬼辺は現在の「木部」、輪中は水害から点在する人家や集落を守るために周囲に築いた一重、二重の堤防を意味する。

 輪中というと木曽川、長良川、揖斐川が合流する濃尾平野南西部が有名だが、九頭竜川流域の我が地元の木部地区もその昔、広々とした生活圏が輪中で守られていたという。江戸初期の貞享2(1685)年ごろに描かれたと推定される「鬼辺輪中絵図」(坂井市三国町池見、井上正也氏所蔵)が輪中の存在を証明する。


 そういえば木部地区も、九頭竜川、竹田川、兵庫川の三河川がそれぞれの下流域で合流し、古来水害に悩まされてきたであろうことは想像に難くない。

 ではなぜ「鬼辺」なのか。誤解を恐れずに申し上げれば、ここは鬼の流域、もしくは鬼が出没した川辺なのだろう。鬼辺輪中域の同市坂井町木部新保の氏神様・紀倍(きべ)神社には、流域一帯で乱暴狼藉の限りを尽くし、土地の人々を震え上がらせた「鬼伝説」が伝わる。ときは大同元年、平安京を開いた桓武天皇の長子・平城天皇の時代だった。

 地元の訴えを聞き入れた都の朝廷は比叡山の七人の怪僧を派遣し、暴れまわる鬼をことごとく捕らえ、懲らしめ、追放したとされる。まさに「鬼滅の刃」を振るったのだ。以来、織田信長軍による一向一揆せん滅の兵火に遭う戦国末期まで、流域一円の穀倉地帯には平安が訪れたという。

 現実的に考えれば、「鬼」と言うのは得体の知れない神出鬼没の未知の恐怖や暴力を指すのではないのだろうか。だとすれば、夜目にも赤銅色に日焼けした盗賊の一団が九頭竜川など三河川の上流、あるいは下流から伝馬船でやってきては米蔵のコメをことごとく奪い去った。ときには村人たちを威嚇し、傷つけ、蹴散らして...。それを鬼辺(木部)の鬼伝説と考える。


 フィールドワーク講座「鬼辺輪中を歩く」には約30人が参加し、鬼伝説由来の紀倍神社(坂井町木部新保)からスタートした。数日前の天気予報では「ほぼ雨模様」だったが、開講日が近づくにつれて傘マークが次第に取れてゆき、当日は次第に秋晴れも期待できる空模様に。薄日がさす神社境内で、共催団体の坂井木部地区町づくり協議会会長の吉川裕さんから「地域の文化財探訪の意義」や「木部の鬼退治」などの説明を受けたあと、輪中の雰囲気を醸す九頭竜川右岸の堤防へと向かった。

 途中、集落内の永福寺境内で「教如上人滞在所」の石碑を仰ぎ見る。浄土真宗本願寺12世。父・顕如とともに石山本願寺(大坂)に籠城し、敵対する織田信長に抗戦。戦国史上にも名高い石山合戦を指導した。

 天正8(1580)年、講和・開城に傾いた顕如に対して、教如は徹底抗戦を主張。ほどなく父から義絶され、やむなく同本願寺を明け渡した教如はそれから約2年間、北陸や中部山岳地帯に布教の場を求めて放浪するが、北陸布教の最中に同寺院に立ち寄ったと推定される。

 そもそも教如の室は信長に滅ぼされた越前一乗谷の5代当主・朝倉義景の娘だった。それゆえに、愛妻の一族を死地に追いやった信長の軍門には下りたくなかったのだろう。2年後、信長が本能寺の変で斃れると、教如は義絶を解かれて本願寺に復帰する。反骨の法主・教如が"鬼辺の郷(さと)"に残した足跡は深く、あらためて歴史のダイナミズムを感じざるを得ない。


 私たちが堤防の立つころには、雨の気配はすっかり遠のき、九頭竜川のとうとうとした流れが晩秋の陽光にきらめいて、いつもに増して清々しく美しい。舟運が発達した中世から近世にかけて、目の前の大河は物流のハイウエイだったに違いない。

 中世の一時期、この地を支配した越前朝倉一族は、足羽川→日野川→九頭竜川を利用して河口の三国湊に物資を運び、三国湊に揚げられた物資・情報・文化はその逆のルートで朝倉氏の一乗谷に運ばれたという記述も残る。河川という物流のハイウエイは一族に富と繁栄をもたらす。

 九頭竜川の河口域に向かって延伸する現在の堤防は明治33(1900)年から同42年にかけて行われた河川改修事業によって築造。近代的な堤防の完成で堤外地となった民家や神社などは現在地の堤内地に移転したという。木部新保集落は10数戸、隣接の折戸集落はほぼ集落ごとの70数戸に上る。

 私たちは下流域の折戸集落に向かって堤防を下ってゆき、明治末期の堤内地への移転に伴い新たに碁盤の目状に区画・整備された集落内に分け入った。明治の移転の際にお隣のあわら市内の旧家から移築されたY氏邸を覗う。明治中期の切り妻造り住宅で、各部材は舟運を利用して運ばれたという。古色蒼然たる堂々の佇まいは集落内でひと際の存在感を放つ。


 ほどなくして私たちは「鬼」に巡り合う。それは地元の人たちが江戸初期の元禄年間に制作した「鬼の彫像(木彫)」で、村外れの白山神社本殿に掲げられていた。本殿脇にたつ笏谷石の小ぶりな鳥居には、製作・寄贈年が江戸初期の元禄14年と記されており、同時期に鬼の彫像も掲げられた可能性が高い。

 市教育委員会の説明によると、1948(昭和23)年6月の福井大地震で本殿は倒壊したが、主要部材や装飾品はそのままに再建されたらしい。鬼の彫像は左脚を大きく踏ん張り、カッと目を見開いて虚空をにらむ。チリチリの頭髪に力感あふれる体躯...しかし、鬼としての定番の角が無く、それは体格の良い乱暴者にも見える。

同神社の祭神は「鬼神」だが、「神様」は姿かたちを露わにしないもの。「鬼神」を持って「鬼」を制するとすれば、同神社の彫像の鬼こそ、その昔土地の人々を苦しめた鬼そのものではないだろうか。

 武家による統治が完了していなかった古代~中世の混迷の時代、ある時は夜陰にまぎれて、ある時は白昼堂々と略奪を繰り返す悪党たちが出没した。そしていつしか「鬼伝説」として語り継がれるようになったと考える。


 晩秋の空はすっかり晴れ上がり、堤防を上り下りする私たちの足取りも軽い。左に大きく蛇行する九頭竜川左岸の空で、風力発電の風車数基がのどかに旋回する。さらに左遠方に目を転じると、通称・三里浜に向かってストンと傾斜する高須山の山容をはっきりと確認することができる。この穏やかな光景はいつ眺めても心を和ませる。


 今回のフィールドワーク講座の最終地点(坂井市三国町池見)にやってきた。集落中ほどにある稲荷神社。地元の長老の案内で倉稲魂神(うかのみたまのかみ)など3体を祭神とする神社の沿革・由来などの説明を受ける。 

 手にした資料を広げて、長老(藤田秀樹さん)が曰く、「伝統の『池見神楽』です。ご覧ください。江戸後期の文政年間に興り、村の祭礼や慶事があった時のほか、近郷近在の村々でも奉納してきました」

 説明では伊勢神楽に由来し、舞い方、囃子方の陣容などを記した文政12(1829)年来の文書計12冊が現存する。神楽は大正期以降、中断、再興を繰り返し、現在は平成25年から中断中。「村自慢の伝統芸能なので、ぜひ再興したいが、少子高齢化によって保存会の編成が大変難しい」と寂しげ。それでも文書の存在を拠り所に、近い将来の再興に期待を寄せる。

 寺院の無い同集落では区公民館内の多目的ホールに祭壇を設け、信心深い人々の便宜を図ってきたという。祭壇には親鸞聖人、蓮如上人、聖徳太子16歳(孝養太子像)肖像の三点セットが厳かに掲げられている。太子は仏教の導入に貢献し、今に繋がる国の礎を築いた。浄土真宗の宗祖・親鸞はそのことに強く感銘し、若き日の北関東布教の際には聖徳太子信仰にも力を注いだとされている。

 心の中にあたたかな思いが広がるのを感じながら、この日のフィールドワーク講座を終えた。コロナ禍の現状は厳しく、先行きは不透明だ。しかし、悲観も落胆もせず、それぞれの地域で開かれている生涯学習講座などに足を運び、ふるさとの魅力を噛みしめ、コロナ禍でしぼんだ心身をリフレッシュさせたい。(了)

© 2020 吉川博和
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