「麒麟を探せ!」

 戦国史最大の謎といわれる「本能寺の変」。来年の大河ドラマ「麒麟がくる」に合わせて、事変の主役・明智光秀への関心が予想以上の高まりを見せている。戦国のスーパーヒーロー・織田信長の寝首をかいた「逆臣」とのレッテルは剥がせそうにもないが、後半生に統治した丹波では「名君」だったという史実も伝わる。

 すると「本能寺の変」というのは、突然魔が差しての暴挙だったのか、あるいは殿中松の廊下の浅野内匠頭のようにプッツンしての暴走だったのか。いやいや苦労に苦労を重ねて信長の下で大出世を遂げた戦国武将だけに、そんなやわな精神構造の持ち主だったとは考えにくい。

 百聞は一見にしかず。折り紙つきのシルバーエイジの3人(昭和27~28年生まれ)が奥丹波、口丹波の拠点、京都府福知山、亀岡両市を訪ねる旅に出た。私・吉川博和(文中Y)はがちがちの文科系だが、同行の中川晶展君(同N)と真橋克己君(同S)はともにリアリストの理科系。今回の旅では理系ならではの謎解きヒントを与えてくれるかもしれない。そんな期待も半ばに、9月18日午前8時3分、JR福井駅発の上り特急「サンダーバード8号」に飛び乗った。

「シャナイハンバイ!?」

 自由席車両はほどよく空いていて、座席を一回転させ、四人掛けの席にしてゆったりと腰を下ろす。するといきなり「しまった、キオスクで缶ビール買ってくるのを忘れた。まあいい、車内販売で我慢するか」とS。「シャ、シャナイハンバイ?今や死語。何年も前からやってない」「今あるのは新幹線の中だけじゃないの」とYとN。「マジけ。はよ(早めに)言えよ」(S)「……」(Y、N)。

アナログな昭和に青春時代を送った私たちは、デジタルな平成には今一つなじめかった。それが令和ともなるとなあ。柄にもなくセンチメンタルな思いに浸っているうちに、列車は北陸トンネルを潜り抜け、港町・敦賀を置き去りにする。

千年の都・京都には午前10時11分に到着。「千年の都」なんて大げさに表現するのは、気の置けない仲間との旅で少しばかりテンションが上がっているからか。でも、世界屈指の観光都市(京都)へ特急列車でわずか2時間ほどの距離にあるという有難さを、ともすると福井の私たちは忘れている。

この日の目的地の福知山市には京都から特急「まいづる3号」(これも自由席)で1時間20分。のどかな奥丹波の山川、田園風景、街並み、そして小高い丘にそびえる復元・福知山城天守閣。旅情がぐっと深まる。

来年の大河ドラマブームをいち早く引き寄せようと、「光秀の福知山」をアピールしたポスターや懸垂幕などが駅周辺の要所、要所に掲げられている。駅舎に隣接する地元観光協会にも“光秀グッズ”が戸狭しと並べられており、中でも紺、朱、紫の三色の絵と文字で、それぞれに福知山城をあしらった和風タオルは、「明智」「光秀」の名前が醸す清貧、美麗なイメージをふんわりと受け止めているようだ。これが「豊臣秀吉」だと金、銀の刺繍でも施さないと様にならないし、「西郷隆盛」だと汗臭い、「織田信長」では血生臭い(失礼)。

早速、私たち3人は同観光協会のレンタサイクルにまたがって、夏空に雄々しいシルエットを描く福知山城を目指してペダルを踏む。確かに暦の上では秋だが、この日も30度越えの「真夏日」。たちまち汗が噴き出るが、旅の高揚感からかママチャリのペダルは軽い。先を行く電動自転車の2人は見るからに軽快そのもの、しかも速い、速い。

途中の中華料理店で空腹を満たし、事前の約束通り天守閣の入り口で福知山市文化・スポーツ振興課主査(学芸員)の和田直樹さんと落ち合う。ウイークデー(水曜日)だというのにひっきりなしに観光客が出入りする。「さすが大河ドラマの力」「来年になればもっと凄いことになっているんでしょうね」。YもNもSも、つまり3人とも目の前の活況に驚くやら、羨ましいやら。平山城(ひらやまじろ)だけに広がる市街地がパノラマ状に見渡せる。真夏日とはいえ乾いた秋の風が頬を撫でる。

転用石の天守台

 説明によると、福知山城の天守閣は三層四階の大天守と二層の小天守の連立構造で、昭和61(1986)年に既存の石垣(天守台)の上に同市に伝わる絵図資料を参考に築城された。いずれも鉄筋コンクリート造りだが、木材をふんだんにあしらい、明治6(1873)年の廃城令施行の頃まで見られたであろう、古色蒼然とした装い。復元に向けては、市民の「瓦一枚運動」、つまり草の根運動が起爆剤となったらしい。これも羨ましい限り。

古典的な野面積みの天守台(石垣)は、江戸時代に多少の改修の手を加えられているものの、天正7(1579)年の築城当時の姿をとどめている。恐らく激戦地・奥丹波の拠点として、突貫工事で築城したのだろう。自然石の代わりに「供養塔」や「墓碑塔」を解体してはめ込んだ転用石もむき出しになっており、戦国時代の緊張感がにじむ。

凛々しい姿の福知山城天守閣。夏空にくっきりと映える
凛々しい姿の福知山城天守閣。夏空にくっきりと映える
所々に「転用石」を用いた福知山城天守台の石垣
所々に「転用石」を用いた福知山城天守台の石垣

案内をお願いした和田主査(学芸員)は、城郭研究で有名な千田嘉博・奈良大教授の教え子で、歴史ブーム、光秀ブームの到来で講演活動にも忙しい。和田主査に促されて天守閣内に足を踏み入れる。天守内部も木がふんだんに使用されているが、踏みしめる床、階段などからは、鉄筋コンクリートならではの堅牢さが伝わってくる。一枚ガラスで仕切られた各種資料の展示コーナーも閲覧しやすく、福井県勝山市の勝山城博物館(鉄筋コンクリート)をコンパクトにしたような造り。これだと地震にも強く、内装に配意すればすべて木造での復元にこだわる必要がないのかもしれない。

私たちは、和田主査が指さす一枚の文書に吸い寄せられる。光秀が軍規を列挙したもので、その名も「家中軍法」(全18か条)。光秀を祭神とする市内の御霊神社の社宝(市指定文化財)として伝わっており、数ある織田軍団の中でも唯一伝わる代物。「例えば、武者の心構えとして『持ち分を守り、抜け駆けを禁ずる』と説き、いざ出陣に当たっては、『それぞれの石高に応じて武器や軍馬を整えて参入せよ』などと噛んで含めるように諭しています」と同主査。「光秀という人は緻密なうえ、気配りにも長けた武将なのです」と言葉を重ねる。

さらに、「その奥書(なお書き)には、『私はかつて瓦礫のように沈んだ低い身分だったが、今では大きな人数(家来)を与えられる身分になった』などと、信長への感謝の気持ちを表しています」と力を込める。「(従って)皆も精励するように」とも。

同文書の作成年月日は本能寺の変のちょうど1年前の天正9(1581)年6月2日。その1年後に光秀はなぜガラリ豹変してしまったのだろうか。しかも、信長は丹波一円を平定した光秀を、「その名誉は天下に比類なし」と激賞しているというのに。

この劇的な展開ゆえに謎が謎を、憶測が憶測を呼び、ざっと50~60もの動機説、黒幕説、陰謀説がささやかれている。「本能寺の変」という歴史的事変は、昔も今も世の関心が高いということなのだろう。

 種々の展示を楽しみながら天守閣の最上階へ。城を中心に広がる城下町の町筋を目で追い、宮津の海(日本海)に向かって、北の山あいに溶けていく由良川の流れを眺望する。和田主査は言う。「由良川は流域を潤してくれるが、人々は常に洪水に悩まされてきた。福地山は昔も今も、洪水との闘いの歴史の中にあるんです。もちろん光秀の時代もそうでした」

由良川左岸に繁る「明智藪」=福知山市で
由良川左岸に繁る「明智藪」=福知山市で

河畔の明智藪

その治水対策の一環が由良川左岸沿いにうっそうと生い茂る「光秀藪(やぶ)」。幾重ものモウソウダケの生垣の様相を呈しており、無防備な城下町になだれ込もうとする濁流をこの竹林でかわそうという意図をしっかりと確認できる。竹林内の手入れは必要だというが、現代まで存在しているところを見ると、相応の効果があったのだろう。光秀を祭神とし、ゆかりの文書「家中軍法」などを社宝とする御霊神社は城下町の北部地域に鎮座する。

光秀は統治に伴い、地子銭(税の一種)を徴収しなかったという記録も残る。城代には娘婿の明智秀満を置き、その治世はわずか3年ほどだったが、領民の子々孫々に至るまで「名君」と記憶されることになる。

別れ際に和田主査は、私たちにこう指摘してくれた。「イエズス会の宣教師・ルイス・フロイスが唯一、光秀の性格に触れた記述を残しています。それによると、『気遣いがあり、調略・調整の名人である』と。本能寺の変の謎を解く手がかりの一つになるかもしれません」

フロイスは室町末期から織豊時代(安土桃山時代)に日本に滞在し、日本の実情をローマのイエズス会本部に報告する形式で「日本史」を書き残している。キリスト教の布教に理解を示す信長に対しては好意的なまなざしを向けているが、仏教(天台宗、時宗)に軸足を置いていた光秀を見る目は厳しい。それでも、前述のように「調略・調整の名人」と評価しているのだ。余談になるが、フロイスは柴田勝家の越前・北ノ庄城(福井市)にも足を延ばし、「九重にそびえる」と報告している。

城を降り、再びレンタサイクルにまたがって駅へ向かう。やや日が傾き、気温も落ち、市街地に初秋の風が吹き抜けていく。「明日(15日)は、御霊神社を参拝しよう。時間あれば名勝・天橋立に行ってもいい」と意見がまとまり、早めに郊外の温泉宿に入館する。源泉かけ流しの浴槽に浸かり、いつもより多めのアルコールを五臓六腑にしみ込ませて、早々と眠りに就く。

翌朝(15日・敬老の日)も好天。まず朝風呂、バイキング形式の朝飯。昼飯の分まで胃袋に収めて、明智藪経由で、御霊神社に向かうことにした。

由良川左岸に続く明智藪は、確かに青々としたモウソウダケが幾重にも密生していて、濁流が簡単に乗り越えられそうにない。土手のように遮断できないまでも、大きなクッションの役割を果たしてくれそうだ。しかも単に竹林を整備するだけなので、コストも労力もほとんどかからず、領民の負担は軽微で済む。庶民レベルまで目線を下げる光秀流の人心掌握術なのだろうか。だが、その繊細な気遣い、気配りが、武将として致命傷とならないとも限らない。

御霊神社から天橋立へ

次に「御霊神社」に向かう。一度耳にしたらずっと頭の片隅に残りそうなインパクトある社名である。堂々とした構えの鳥居を潜り抜け、石段の参道を登って閑散とした境内中心部に立つ。朱色に統一された拝殿。どこか久能山東照宮にも似た拝殿の造り。ただあそこはひっきりなしに参拝客が訪れていたのだが。

するとどうだろう、日帰りバスツアーの中高年、というかほぼ高齢者の団体客が添乗員の旗に導かれて達者な足取りで参道を登ってくるではないか。兵庫県西宮市からという。いずれも次々と参拝を済ませると、記念写真を撮り合ったり、光秀にちなむ頼山陽の漢詩の詩碑(解説文)に感じ入ったり。少々体型が崩れ、腰がくの字に曲がり、白髪に覆われても朗らかで、すこぶる元気がいい。私たちは先輩達の活気に気圧されつつ、自然と頭が下がるばかりでした。

 それから2時間後、私たち3人は天橋立のモダンな駅頭に降り立っていた。ここでも迷わずレンタサイクル(ママチャリ)を選択し、対岸に向かってひたすら一本道の松並木(湾口砂州)を走る。右手に阿蘇海、左手に宮津湾。日本海と一体の阿蘇海側は文字通りの白砂青松。広がる海の波は小さく、どこまでも青く澄む。これぞ日本の原風景かな。行きかう観光客はどの人も幸せそうな笑みを浮かべている。「日本に生まれて良かった~」。どこかで聞いたようなセリフが頭の中を駆け巡って仕方なし。

 元祖・股のぞきの名所「傘松公園」には長大なリフトに揺られて登頂した。大気にかすんでいるが、対岸に後発の同名所「天橋立ビューランド」を確認する。傘松公園からの眺めを「横一文字」、天橋立ビューランドからの眺めを「飛竜観」という。私たちが自転車で渡った松並木は全長3・6㌔にも及ぶらしい。

 観光遊覧船が白い航跡を曳いて眼下の宮津湾内を往来する。青いキャンバスに純白の絵の具を置いたような雲。絵のような光景が秋の順光にくっきりと映え、どの観光客も「横一文字」の絶景に、いつまでも見とれている。室町時代中期、水墨画の大家・雪舟がここに足を運び、「国宝・天橋立図」を実写している。親友の細川藤孝(宮津領主)に案内されて、光秀もこの自然美を堪能したに違いない。

傘松公園からの天橋立「横一文字」の眺め
傘松公園からの天橋立「横一文字」の眺め
穏やかな阿蘇海の波に洗われる天橋立の砂州
穏やかな阿蘇海の波に洗われる天橋立の砂州
筆者・吉川博和
筆者・吉川博和

 帰りもリフトで下山。松並木の途中にあった明星の代表歌人・与謝野晶子の歌碑「人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立」に感銘し、午後五時ごろにスタート地点の天橋立駅に到着した。近くの土産物店をうろつき、間もなく、福知山に向かう特急「はしだて8号」の車中の人となる。居合わせた関西学院大のラグビー部員2人(ともに2年生)と言葉を交わすが、彼らのマナーの良さに感心し、逞しい体からあふれ出る若さに羨望を覚える。

 旅の最終日(3日目)も好天。朝風呂でリフレッシュし、いつもより遅めの朝食と2杯のコーヒーで覚醒した後、タクシーを呼んで連泊の宿を出た。私たちを乗せたトヨタ・プリウスは風を切って福知山駅のロータリーに滑り込み、午前9時45分発の特急「きのさき10号」に乗車。1時間ほどで最終目的地の亀岡市に到着する。

旧名は「亀山」。しかし、三重県にも同名のまち(藩)があることから、明治初期に現在の「亀岡」に改めたらしい。ただ、戦国時代末期に明智光秀が築城した「亀山城」についてはそのままの名称で伝わり、明治の廃城令で解体された後も、「丹波亀山城址」として残されている。現在、宗教法人・大本が同城址を管理している。

「敵は本能寺にあり」

亀山城の名を一躍有名にしたのが、「本能寺の変」である。天正10(1582)年6月2日未明、光秀の軍勢13,000人がこの城に集まり、「敵は本能寺にあり」の大号令を受けて、織田信長が逗留する京都・本能寺を目指したとされる。大軍勢は城から南東方向へ約5㌔の老ノ坂を越えて洛中へなだれ込む。軍勢の結束は固く一人の脱落者もいなかったと伝わる。この歴史的城址は、「本能寺の変」の“生き証人”でもある。

亀岡市と市内の有志たちは今、「光秀公のまち亀岡」のPRに余念がない。亀岡駅と城址を結ぶゾーンの中間に、光秀のブロンズ像と、光秀が天下奪取への想いを込めたという連歌会「愛宕百韻」の代表作の歌碑を展示する。「時はいま、天が下知る五月哉(さつきかな)」。その時光秀は日本史上最大の謀反を決意した、と推測する。今年五月に設置された。

ここ亀岡でも光秀は叡知に富んだ名君だったという評価は揺るがない。事前の約束通り、駅から徒歩数分のところにある同市文化資料館にお邪魔して、あらためて光秀と亀岡(亀山)との関係や、来年の大河ドラマ「麒麟がくる」に寄せる期待などをうかがうことにした。

同文化資料館の大欠哲学芸員は「当然、大河ドラマに寄せる期待は大変大きい」と切り出し、「来年1月と秋のともに一カ月間、特別展『光秀と戦国丹波』を開催します。会場は駅に隣接して現在建設中のサッカー場・京都スタジアムで、そこに専用の展示スペース『大河ドラマ館』を設ける予定です。1月の展示は光秀が丹波に来るまで、秋はその後の光秀、という内容。今に伝わる史料、書状類などが中心ですが、展示に工夫を凝らし、Jリーグの応援にやってくる若者や市民に訴えていきたいと考えています」と瞳を輝かせる。

同市は既に歴史学者の藤田達夫三重大教授とアドバイザー契約を交わしており、今年11月中には「明智光秀の家臣団と教養」「本能寺の変と家中紛争」などをテーマに歴史講座を開くという。「光秀は享年55歳説と67歳説がありますが、例え老将の域にあっても、気遣いに優れたすごい武将だったことは間違いない。信長との関係も極めて良好だったという説もあり、そのミステリアスさがたまらない魅力です」

大欠学芸員が披露してくれた亀山城の古写真(江戸末期か明治初期の撮影)には、層塔型の大天守閣がそびえる。徳川譜代の松平氏を城主に迎え、西国大名を動員して造った天下普請の城だったらしい。ただ、層塔型天守閣は江戸中期以降に流行した建築様式で、光秀の時代の天守とは様相を異にする。

昼食の後、その亀山城址を訪ねる。同城址の形態は平城(ひらじろ)に近い。城下町亀岡のほぼ中心地に位置し、権威の象徴としての存在感を色濃くにじませる。管理事務所で観光許可を受けた後、手入れが行き届いた城址内を散策。俗化した看板や飲物販売機などが一つもないせいか、城址内が清廉かつ厳粛な空気に満ち満ちているようだ。私たち3人の口から冗談の一つもでてこない。

散策しながら密かに思う。「近世、あるいは中世の城内というのは、痺れるような緊張感に包まれていたのではないだろうか」。きれいに掃き清めた散策道には落ち葉の一つも見当らない。その最奥部に歩みを進めると苔むした大型の天守台が忽然と現れた。今から約440年も前、明智光秀はこの天守台に立ち、眼下に控える13,000の兵に向かって「敵は本能寺にあり!」と大号令を下したのだろうか。思わず戦慄を覚えるが、苔むした石垣は黙して語らない。

近世の面影を残す城下町を歩き回り、量販店内のコーヒーショップで一休みした後、背後に完成間近の京都スタジアムを控える亀岡駅へ。四面の観客席がぐるり屋根に覆われた同スタジアムはさながら航空母艦のようだ。京都駅から電車でわずか約30分。大河ドラマの放映を追い風に、このまちも大化けするかもしれない。

予定より2便早く、京都駅を午後5時9分発の特急「サンダーバード33号」で帰路に就く。「高校以来、半世紀ぶりの修学旅行だった」「いろいろと勉強になった」「最後まで楽しかった」。NもSもそして私も、異口同音に満足感を述べ合い、2泊3日の「麒麟を探す旅」に終止符を打った。

麒麟、それは時代のヒーローの前に現れる伝説上の霊獣である。今回の「探す」旅で霊獣の尻尾にでも触れることができたのだろうか。以降のリポートで詳報したい。

「麒麟を探せ」解説編

 戦国時代というと、潔く力と力がぶつかり合う戦闘シーンを連想させるが、その裏では諜報、謀略活動に明け暮れたという、まさに何でもありのすさまじい時代だった。一向一揆衆は暴徒化し、山野に血生臭い風が吹き荒れた。

 そんな時代に、時代の申し子のように織田信長はさっそうと登場し、天才的な知恵と力で次々と隣国を斬りとって、間もなく武家の頂点に立とうとしていた。しかし、天正10(1582)年6月2日早朝、信長は逗留先の京都・本能寺で腹心と頼む明智光秀に討たれた。世にいう「本能寺の変」である。

天才武将は実にあっけなく黄泉の国に消え去った。信長は死を覚悟した瞬間、「是非もなし」と言葉を吐き捨て、「余は自ら死を招いたな」ともつぶやいたとされる。その時、信長49歳、光秀67歳。

極めて従順だったという宿老(光秀)は、なぜ青年宰相(信長)の寝首をかいたのだろうか。これまで何十冊という解説本や小説の類が生まれ、書架に並び、日本史上最大の謀反の顛末をなぞっている。光秀の信長への怨恨接、朝廷陰謀説、イエズス会陰謀説、羽柴秀吉による謀略説、その後の光秀は密かに生き残り、徳川幕府にも影響力を及ぼす高僧として長寿を全うしたという説などと、枚挙にいとまがない。

決定的な史料(証拠)がないこともあって、江戸時代に面白おかしく書かれた軍記物や講談の類が史実のように伝わってしまうのだ。無計画な「三日天下」「逆臣」という固定的なイメージはそうやって作られた、と言っても過言ではない。現代にあっても状況は変わらない。

尽きぬ疑問、募る焦燥

書架に並ぶ関連書籍や解説書を読み込んでいくと、どうしても腑に落ちない事象に遭遇し、フラストレーションさえ覚えてしまう。両手で清水をすくい取っても、指の隙間からこぼれてしまうという不完全さに似ているような。

例えば、一触即発の状態で備中の毛利勢とにらみ合っていた羽柴(豊臣)秀吉の軍勢20,000が畿内に舞い戻り、事変を知ってからわずか9日ほどで「山崎の戦い」(弔い合戦)の陣に就いていた点、さらに徳川家康(信長の同盟者)にとっても、天下に勇名を轟かすチャンス到来なのに、我関せずとばかりに旧武田領や織田領の侵略に専心していたという。一応、弔い合戦の「山崎の戦い」に向けて陣を立ち上げたが、なかなか西(山崎)へ陣を動かそうとしない。

それにしても、「本能寺の変」勃発前の5月中旬、信長の招きとはいえ、なぜ慎重派の家康が少人数で安土城や堺見物に出かけて行ったのだろうか。時あたかも、何でもありの戦国時代だ。家康は終始、その身に重大な危険を感じながらも、「物見遊山」の体を取り繕っていたのではないだろうか。信長にしたところで、数十人の親衛隊を置いただけで防御機能を備えない寺院(本能寺)に逗留することなど、どう考えても尋常ではない。こうした疑問は後から後から湧いてくる。

そのようなときに、一冊の良書「本能寺の変・431年目の真実(2013年出版)」に巡り合い、湧き出る疑問にどんより曇った眼(まなこ)を開かせてくれた。まさに目から鱗が落ちた感覚とも言えよう。筆者・明智憲三郎氏が光秀の末裔として執念で突き止めた、本能寺の変をめぐる“真実の世界”が姿かたちを現したのである。

あらゆる疑問がきれいに払しょくされ、「本能寺の変」をめぐるジグソーパズルの各ピースがほぼ完ぺきにはめ込まれたという爽快感、および達成感は格別。以下は同書をベースに話を進めていこう。

信長が仕組んだ「変」

いきなり結論から言ってしまえば、「本能寺の変」というのは織田信長が描いたシナリオである。ただし、信長は徳川家康を調略して、つまり本能寺におびき寄せて討ち果たすため、隙だらけの状態を演出した。一方の光秀は事前に信長からこの策略(シナリオ)を吹き込まれていて、現実には家康ならぬ信長を討ち果たして本懐を遂げたということなのだ。

信長が描いたシナリオでは、天正10(1582)年6月2日の昼頃に、堺見物を終えた家康とその一行は、信長の待つ本能寺に到着する。そこで突然、家康が「謀反」を起こしたなどの理由をでっち上げて抹殺する。そのためにも信長自身も身の回りに親衛隊しか置かず、家康と取り巻きの警戒心を緩めようと画策した。光秀の軍勢13,000は、洛中から数里の丹波亀山城(現京都府亀岡市)に待機し、「家康を討て」との出撃令を待つ。

一方、光秀は「敵は本能寺にあり」と大号令を発して、未明に亀山城を出るとき、もしくは老ノ坂を越えて洛中に進路を定めたとき、「敵は信長」とは言っていない。武将クラスしか真実を知らせていなかったのだろう。そうでなければ、動揺する軍団から脱落者が相次いでいたはずだ。

事実、四国の長宗我部元親を討つために、河内・岸和田にまで進軍した織田信孝、丹羽長秀の連合軍団は、「本能寺の変」の直後、動揺する兵士の離脱が相次ぎ、崩壊寸前になってしまったという。光秀の場合は、緻密な情報操作で軍団内の不安を鎮圧し、13,000人が一糸乱れず本能寺を目指す。

天正10(1582)年6月2日早朝、光秀は本能寺の信長を自害に追い込み、かえす刀で二条御所(城)に籠る嫡男・織田信忠も討ち取った。だが、早くも誤算が生ずる。真っ先に駆けつけてくれると期待した細川藤孝(丹後宮津)と筒井順慶(大和郡山)が参戦を拒否。11日後の「山崎の戦い」で光秀軍は殲滅。「三日天下」の光秀は帰らぬ人となる。

秀吉も知っていた

謀反を打ち明けられながらも、土壇場で参戦を拒否した藤孝は、その場、その時の雰囲気に合わせて、柔軟に態度を使い分ける「公家侍」だったという。「武士の風上にも…」などとの粗野な思想はみじんもない。備中(広島)に滞陣する秀吉にも情報を流していて趨勢を見極めていたふしがある。かくして、謀反の動きを知る秀吉は、いち早く毛利軍と手を打ち、20,000の大軍勢を数日で畿内にUターンさせるという、奇跡的な「中国大返し」を成し遂げたのだ。

 藤孝と順慶の二枚看板が参戦を拒否した時点で、秀吉と光秀の綱引きは勝負がついていた。事変直後、藤孝の翻意を促そうとする光秀の書状には動揺が表れている。「この事変は嫡男・細川忠興らのために仕掛けた。味方につくなら、どの領地も思うままに…」などと乱れに乱れる。

 もう一人、光秀から直接、謀反の決意を打ち明けられていた大物がいる。信長が策略をもって消し去ろうとした徳川家康その人である。領民の統率力と戦闘力は折り紙付き。戦場の経験も豊富だが、その旗印として「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」を掲げ、「戦乱の世に別れを告げ、浄土のような平和を取り戻したい」との意欲を強く持つ。この一点で光秀の想いと相通ずるうえに、信長の策略「本能寺の変」を打ち明けられて、光秀の同調者となる決意を固める。信長はその一流の直感と洞察力で、家康は近い将来織田家を脅かす存在になると見抜いていたのだろう。

「余は自ら死を招いたな」

 信長の策略(本能寺の変)は「前半部分」は手はず通りに進むが、「後半部分」で水泡に帰し、その身に死が降りかかる。光秀の裏切りを知った信長は、「是非もなし」と言葉を吐き捨て、自ら武器を取って奮戦した。側近には「余は自ら死を招いたな」と言い残したと伝わる。戦闘で腕を負傷した信長は、間もなく寝所の奥に消え、激しい火炎に包まれて自刃する。

 それにしても光秀はなぜ、瓦礫のように社会の底辺に沈んでいた己を筆頭大名にまで引き上げてくれた主君・信長を討たなければならなかったのだろうか。それは、信長は天下統一を成し遂げた後、今度は海を渡って中国・明を斬り取ろうという野望を、側近中の側近の光秀に漏らしたことに起因するのではないだろうか。海外侵略は具体的内容を伴っていたに違いない。信長は家臣に有無を言わさない。このとき光秀と信長の距離感は一気に広がったのだろう。ただ、信長は気づかない。

 しかも、「431年目の真実」で明智氏が指摘しているように、日本国内の領地は織田一門に配分し、側近といえども“外様”の光秀とその一族は国外の領地に追いやられてしまう、と悲観した。フロイスやバリアーノらイエズス会の宣教師から海外の情勢をしっかり吸収している信長は、海外侵略に向けて自信も野望も膨らませていたのだろう。光秀は思う。「戦争は半永久的に終わらない。そうなれば明智一族、さらには一族源流の土岐氏の存続も危うい」と。齢67を数え、老境の最中にある光秀は苦悶するが、一方の信長は光秀の胸中を知る心境にはない。まして、自身が描いた「本能寺の変」を逆手に取られようとは。

 光秀と家康の濃密な関係を示す後日談がある。光秀の重臣・斎藤利三。「本能寺の変」の首謀者の一人とされ、「山崎の戦い」の後、秀吉に捕らえられ、京都六条河原で磔刑(たっけい)にされる。その悲運の武将に「福」という名の娘がいた。江戸初期、福は家康の目にとまり、二代将軍・秀忠の嫡男・家光の乳母に引き立てられる。ところが、秀忠、お江与(信長の姪)夫妻は利発然とした第三子・忠長の方を可愛がり、「この子を三代将軍に」と望む。ついには周囲もそういう目で幼い忠長に接するようになる。

「春日局」の出自

 一計を案じた「福」は駿府城に参じ、大御所・家康に「長幼の序」の大切さを訴える。すると家康は「福」の言い分を認めて、「三代将軍は家光」との天の声を下す。もとより大御所には逆らえない秀忠とお江与は、既成事実として「家光優先」を認めるしかなかった。その後、「福」は大奥に入り、「春日局」として絶対的な存在となる。余談になるが、忠長は長じて駿河大納言として尊敬を集めるが、兄・家光(三代将軍)に疎まれて改易。今の群馬県高崎に幽閉され、27歳の若さで自決に追い込まれる。

 明智憲三郎氏が指摘するが、江戸城の内奥には、家光は「福」の子だったとされる秘伝の文書も伝わっていたという。だとすれば、腹違いの弟・忠長に仕掛けた冷たい仕打ちもある程度は納得できる。しかも、忠長は伯父・信康(家康嫡男)を自刃に追い込んだ信長の血を引く。「本能寺の変」の三年前、猜疑心の強い信長は信康が武田氏と内通していると疑った。徳川家を守るため、家康は泣く泣く信康の腹を切らせたとされる。享年21。

晩年の家康はその無念さがしこりとなっていた可能性がある。家光で信長との血を断ち、恩ある光秀の家臣の血を継承していこうと考えても何ら不思議はない。腹を切らせた信康は、遠ざけられていた弟の結城秀康(初代福井藩主、家康次男)を父家康に引き合わせ、身内として認知させたという心温まるエピソードを持つ。

歴史で「もし」を語るのはナンセンスだが、それでも「もし、本能寺の変がなかったら」と想定するとこうなるのではないか。信長は海外侵略を推し進め、世界史や世界地図を塗り替えていた可能性が高い。秀吉の文禄の役、慶長の役ではのらりくらりと出兵を拒否した家康も、信長の命令とあれば即座に大軍団を編成して海を渡らなければいけなかっただろう。戦乱の世は半永久的に終わらない。

今回の「麒麟を探す旅」に同行してくれた親友のN、S(中川昌展氏、真橋克己氏)は家康の“距離の取り方”を「絶妙」と感心する。「運命のルーレット・ボールがどのポケットに収まるか凝視していたのだろう。本能寺の変だって信長が奇跡的に生き延びる可能性もあるのだから。続く山崎の戦いも同様のスタンスだった。ただし、史実に反して仮に光秀有利の流れにあったのなら、ここは一気に陣を西(山崎)に動かして加勢していただろう」とS。「この時代の武将は一時的な感情に動かされることなどないと思う。光秀の娘(のちの細川ガラシャ)を息子・忠興の妻に迎えながらも、光秀の誘いに乗らなかった細川藤孝の胸中も理解できる。まさに戦国時代の縮図を見るような気がするね」とNも思いを巡らせる。

 中世を揺るがした「本能寺の変」は信長、光秀、家康、秀吉の野望や陰謀が複雑に絡み合い、虚々実々の駆け引きの中で勃発した、と考えざるを得ない。それはまさに戦国時代らしく、その一瞬に己と己の一族の生死を賭けて挑み、激しい火花を散らした究極のサバイバルゲームだったのである。

◆文・吉川博和  構成・桑野寿

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